ポスドク時代の間に考えたこと

査読について
大学院生の頃から少しづつ依頼が来るようになって、ポスドクとなってからは、主に化学系雑誌から依頼がたくさん来るようになった。最近は出版社からの本のプロポーザルや、外国の科学研究費の申請書の査読まで来るようになった。 このように沢山来るようになったのは、ヨーロッパでポスドクをすることにより、自分の想像以上にネットワークが広がったからのように思える。 また、ドイツ時代のボスは雑誌のエディターをしていたので、直接の依頼もよく来た。
査読をする上で気をつけることは、まず、分かりやすく書かれているかということである。 あまりにも酷い論文は読み終えるのにも苦労するが、査読者が全てを理解しなくてはいけないわけではないので、ある一定のラインよりも下のものは容赦無くリジェクトしても良いと考えている。 また、インパクトファクターが5以上の、エディターキックがあるような雑誌は、分かりやすく書かれているだけでなく、インパクトや重要性も判断しなくてはいけない。 このようなものは経験の少ないポスドクにとっては難しい判断ではあるが、主観的に評価すればいいのだと思う。
さようなら周船寺
2019年1月31日、次の勤務先であるパリに引っ越すために、周船寺の家を引き払った。娘が生まれてから初めて家族で暮らしたということもあって、この地域にはたくさんの思い出ができた。 この町は随分古い集落で、街道沿いの商店街を始め、交番、郵便局、神社、小学校などが一通り揃っている。 地元の大家さんには帰国してから3日後の入居ということで、いろいろと融通を利かせてもらった。商店街も活気があり、娘がお世話になった小児科、それに魚屋、八百屋、肉屋での買い物。九州大学の完全移転も終わり、この町もどんどん変わっていくであろうが、古きと新しきの融合した周船寺に、いつかまた住みたい。
海外からの日本の公募への応募について
よく、海外から日本のポストに応募するのに障壁があると言われますが、実際に体験すると応募先と海外のどこにいるのかで、随分と状況が違ってくると思います。 ここでは、主にフランスから日本のポストに応募した時の経験についてまとめておきます。ちなみに出した公募は10件程度です。
一つは郵送時のお金と時間が、国内と比較して余計に掛かることです。 書留の場合はフランスは重さにもよりますが、15EURで2週間は見ておく必要です。 届かなかったことはないですが、受取通知は届いていなかったこともあります。 締切よりも随分早く出さなくてはいけないので、国内と比べて不利ですが、ほとんどの公募は案内が出てから締切まで2ヶ月以上あるので、計画的にすれば、問題はないと思います。 中にはUSBメモリや、論文の印刷などを求めてくるものがあります。 生活に慣れていないとUSBメモリを買うことすら面倒ですが、仕方はありません。 e-mailで応募できるものが、やはり圧倒的に楽です。
二つ目は面接時の旅費自己負担の件です。 公募の案内に、スカイプ等の面接が許可されているケースはほとんどありませんが、私の例では、一次選考通過時にインターネットを通じた面接を提案されました。 理研基礎特研は、場所に応じて最大7万円まで支給してくれて、非常に分かりやすいです。 ヨーロッパは日本から離れているので、面接に行くとなると1週間潰れますが、地理的条件は仕方がないでしょう。 この点、東アジアで海外ポスドクをするのは、就職活動の点において欧米組と比べ有利だと思います。 また、個人的な感触ですが、私が博士後期課程3年の時の就職活動と比べ、海外にいるということは、採用側が面接に呼ぶことを躊躇うようになる気がします。 一方で、海外にいながら面接に呼ばれるということは、採用側も採用する気があるように思います。
理論から実験へ
ポスドクの間の私にとって研究キャリア上の一番大きな出来事は、実験研究に挑戦して、論文を1本出版できたことである。 いい雑誌にはリジェクトされてしまったので、雑誌のインパクトはないが、出版できれば、実験研究もしているという証拠にはなるので、アピールしやすい。 出版してから、周りの人に、あの論文の実験は自分でやったのですか?と言われることもあった。 確かに長らく理論家としてやってきたので、共同研究者にやってもらうことも考えられるが、若いのであれば、多くの場合、自分で手を動かすのが一番早く、勉強になる。 では、なぜ実験研究に挑戦しようと思うようになったのか?

学部生の頃から数学的な解析手法や数理的構造に関心が強く、数値計算などが得意であったことと、教科書を書くような人は理論家であることのほうが多いので、勉強の延長上の研究は、自分にとって当然理論研究であった。いわゆるテストや試験も理論の計算問題が出されるので、その出来がいいと理論研究を選択することに、特に迷いはなかった。
一方で、昔から色々な人に理解される、反応される研究がしたいという思いが強く、実験と理論との協働がサイエンスとして健全という考えも持っていたために、ソフトマターという、比較的、身近な物理現象を扱う学問分野を選んだ。 だが、いざ理論で論文を書いてみると、少なくとも同世代の実験研究者は、ランダウの相転移理論や、電荷系の熱力学に詳しいわけでもないので、理論研究自体にあまり興味を持ってもらえないのである。 特に理論家が用いる、なんでも物理量を無次元にして、物理量の相互関係をいくつもパラメータを変化させて図示する手法は、実際に実験家からすると理解するのが難しく、実験と比較するのに、幾つもの障壁があるのである。 一方で、実験系のひとは、様々な装置や技術を使って、データを出しているが、その解釈に、高等な物理の理論があるわけでなく、合っているのかどうか分からないような、荒い議論をしているように見えた。 当時、実験の論文を読んでも、方法や生データの解析手法が全く理解できず、理論の論文しか読めなかった。 このような状況が、大学院生の自分に重くのしかかり、研究活動をどういう風に面白くしていったらいいのか、ずーっと考えている状況にあった。
そのようななかで、実際の原子モデルを用いた分子動力学シミュレーションに興味を持った。分子動力学シミュレーションは、モデルももっともらしく、結果も動画で面白く示せ、具体的な測定量を計算できるので、実験家にとっても分かりやすい手法であるからだ。 当時の日本は、どちらかというとレナードジョーンズ粒子のみを用いたモデル系のシミュレーションをしている研究者が多く、実際の原子モデルを扱った研究者は理論化学の人、あるいは海外の物理系の人であった。 そこで、学振PDでは化学系を受入先にし、海外渡航先として分子シミュレーションをやっているドイツのある研究室を選んだわけである。
ドイツ渡航後に、分子シミュレーションの方法を修得し、実際に使った研究をするようになったが、そこで知ったのは、分子シミュレーションの結果は、具体的でわかりやすいが、力場の選び方は恣意的で、そこを真面目にしていない研究に、どれほどの信頼性があるのかは、判断が難しいということであった。 また、静電相互作用の扱いやカットオフが結果に与える影響も知ることとなり、勉強する前の分子動力学のイメージが随分と変わってしまった。 さらに、自分は解析計算が得意ということもあって、ドイツ滞在時には解析計算の論文を出版することはできたが、分子シミュレーションの論文は出版せずに終わってしまったのである。 一方で大学院の頃とは違ったこととして、実験データの解析と理論計算による比較研究を沢山手がけることになった。 ドイツの先生が、このような研究を重きに置いているとは来る前は知らなかったが、このサイエンスの考え方が、自分のサイエンスの立場と非常によくマッチしていて、ドイツでの滞在が、非常に実りの多いものとなった。 さらに、分子シミュレーションが自分の期待を満たす方法ではなかったために次は実験に挑戦すればいいのではという考えが生まれた。
ドイツ滞在終盤に差し掛かり、次のポストを考えなくてはいけなくなった時に、現在は実験グループを率いており、元理論家のフランスの現ボスのところが候補先に挙がり、海外学振の候補先とする運びになった。 また、当時の僕が取り組んでいた理論研究が、界面活性剤を入れた電解質溶液の表面張力についてであり、表面張力を測定しさえすれば理論研究の補強ができるという状況にあったため、それを自分で実験すればいいのではないかと自然に考えるようになった。 そして、日本に帰国後、次のフランスの研究室で本格的に実験に取り組む前に、日本で、実験研究を少し、始めることにしようと思い、化学科の別の先生にアプローチをして、無事に1本目の実験論文を出版することができたというわけである。 現在は、フランスでイオン液体の輸送に関する実験研究をしている。 この研究が形になる前に、帰国する可能性が高くなり、残念ではあるが、帰国したら、いよいよ実験研究に本格的に取り組めるので、心機一転、頑張りたい。
ポスドク生活を振り返って
すっかり寒くなったパリの街、シャルル・ド・ゴール空港に電車で向かっていた。 九州大学に職を得て、着任のための帰国をするのであった。 今回は、海外学振の身分を保ったままでの着任のため、パリに家族も住居も残したまま、ポスドク生活を終える。 2週間後に又、戻ってくるということもあり、3年6ヶ月のポスドク生活の終わりという実感はない。 この3年半を振り返ると、ベルリンに1年5ヶ月、首都大に1ヶ月、福岡に1年4ヶ月、パリに8ヶ月と、慌ただしい生活が続いた。 国際引越も3回、小さな引越も入れると、9回もしていることになる。 途中で娘も生まれ、海外生活でもいろいろな刺激を受け、人生観も研究観も学位をとった頃とは別物になってしまったように思える。

昔から、私はお金で損得を考えるのが好きなので、まずはお金の話から。 私は博士課程の時に結婚しており、その時は妻は働いていて、私は学振特別研究員の立場であった。 一方、ドイツに渡る時に、妻は職を辞したので、家計の収入は実質半減、そして渡航費などに膨大なお金を費やした。 妻が職を続けたまま、私が日本で研究するという選択肢もあったであろうし、それと単純比較すれば、損であるけれど、そういう投資を自分にしたと思えば、納得できるレベルであった。 この間の給料は36.2万円。それが3年間貰えるという学振PDの身分で、学位を取った頃の私からすれば、割と名誉な職、健康保険や年金がなかろうが、海外渡航する私に取ってはメリットでもあったし、職の不安定さに関する不安はなかった。 その1年半後に、海外学振に内定し、娘が生まれた。 出産に際しては、日本とドイツを往復したりと、たくさんのお金が飛んで行ったわけであるが、その頃には、負債を抱えなければいいかくらいの鈍い金銭感覚になってしまっていた。 ここらへんは、海外学振に決まり、向こう3年半も不安定ながら職を得たことも関与していると思われる。 だから、当時はより安定した職、助教の職の公募に積極的に出すようなことはしなかった。 その後、日本に帰国し、福岡で1年程暮らす間に、随分と自分の同期、あるいはプラスマイナス2年くらいの人々が、国内で職を得ている現実に直面した。 やはり、海外にいると、日本のネットワークから離れるので気づかないが、日本にいると、それなりに若い人材が、きちんと職を得て、キャリアを進めているのである。 それで、フランス渡航準備を始めるのと同時期くらいに、国内の職に公募を出すようになり、その10個目くらいが、次の職である。 フランス滞在中は月々4000EUR(50万円強)を貰っていたが、住居費が高く(1500EUR強)、物価も高く、妻子帯同だと、初期費用の元を取るのが精一杯で、貯金などする余裕はなかった。 普通のサラリーマンであれば、結婚して、貯金して、子育てして、マイホーム立てて、とか経済的なプランが立つけれど、そういうのは、自分は無理だというのも分かったし、海外に住んでいると、子育てに関しても、実家の両親の世話になるというのも障壁があり、これからもフランスから福岡への引越が待ち受けていると思うと、気が遠くなるけれど、この3年半、お金については色々と悩まされ、頑張ったなというのが私の印象です。 妻と子も、いろいろと頑張ってくれてお疲れさま。

次に身分の不安定さについて。 私自身が、一番、無職の不安があったのは、博士課程の学振PDの内定が出る直前の10月であったと思うが、この時も当時の指導教官の先生に、研究員として雇うことはできるという話は頂いていたので、逼迫していたわけではなかった。 その後、学振PDの任期を一年半残して、海外学振の内定を貰い、海外学振の任期を1年半残して、次の職の内定を貰うことになったため、本当に逼迫した無職の恐怖は多分、味合わなかったのではないだろうか。 ただ、無職にならないようにと、ものすごく情報収集や、申請書準備に時間を掛けたのは事実で、それが、少なからず研究時間を削ぐことにも繋がっている。 一方で申請書を書くのは、自分の研究を見つめ直すいい機会でもあるので、適度に書くことで研究をスムーズに行うことができると感じている。 次の職の内定を貰ったときに、1、2週間の脱力感があったのは、事実である。 以前のように必死に研究しなくていいんだ、とか、もう公募書類書かなくていいんだとか、そういう俗っぽいことを考えて、バカンスシーズンと重なったこともあり、だらだらと過ごした。 しかし、そんなのもすぐに終わり、新生活のタイムスケジュールの設計や、新しい研究計画のプランニング、教育や研究指導に関する思索や、研究費の申請など、すぐに膨大なやるべきことが、頭の中にリストアップされて、こなしていくという、以前と変わらない生活に戻った。 これは、次の職が10年(5年、再任一回)という任期付きなことも影響しているのかもしれない。 九州大学の物理学科は、助教は全員10年任期ということで、規定で決まっている。 この状態になるまでには、労働契約法の施行や大学教員任期法の施行を経て、いろいろな議論のなかで、こういう状態になっていると、公開されている報告書から理解している。 私自身は、流動性の観点からも、安定性の観点からも、非常に良い任期だと思っている。 果たして、私が任期無しの職に、今就いたとして、30年の研究プランを考えられるのか、研究モーチベーションを下げずに研究できるのかは、自分でもわからないが、10年というのは、決して短くはないので、実験物理の研究者として一人前になるステップアッップとして、じっくり取り組みたい。

三つ目は研究の自由度について、考える。 私は、幸運にも博士課程の時からフェローシップを貰い、このポスドクの3年半も、ずーと学振のフェローシップを貰い続けることができた。 こうした財団や政府系のフェローシップを自分で取ってこれるポスドクは研究テーマも自分で決められるし、受け入れ先のボスと雇用関係にないので、受け入れ先のテーマと並行して、他のテーマをすることもできる。 また、教育関係のタスクを任されることも少ないので、自分の研究に時間を割くことができる。 このような点から、自由度は高いが、一方で受け入れ先に直接雇用されたほうが、社会保障関係で手続きが簡素であったり、研究費を使用しやすいということもある。 私の場合、学振PDの時は自己裁量の研究費があり、海外学振の時はなかった。 また、ポスドク前半は理論研究を、後半は実験研究をしていたため、特に海外学振の時に不自由さを味わった。 また、今回の海外学振は、実験研究で任期を一年近く残しての辞退になるため、プロジェクトが未完のまま、帰国する可能性が高い。 理論研究であれば、遠隔地でも一緒に共同研究を進めやすいが、実験研究であると、実験系から離れてしまうと、研究を続けるのは難しい。 そういう意味で、職を得るのがいつになるかわからないというランダム性は、実験プロジェクトの遂行と両立するのは、難しいと感じた。

最後は、これからのことについて。 これまで、ポスドク時代の経済状況、身分の不安定性、研究の自由度について述べたが、実際のところ、国内の助教となっても全てが良くなるわけではない。 例えば、月々の給与だって、おそらく海外学振の給料よりは下がり、身分については安定するものの、研究の自由度については、教育や学務が増える分、研究時間が減り、一方で研究費の応募資格や研究スペースなどで、より自由度が上がると考えている。 こう書くと、教育や学務は、まるでやりたくない仕事のように聞こえてしまうが、私はそうではないと考えている。 こういった仕事は、大学の一般教育職にしかできない職務であり、ポスドクでは決してできないことである。 また、授業能力、研究指導能力、その他大学の主催する様々なイベントの運営力などは、これらの職務経験を通じてのみ、鍛錬できる能力であり、必ず研究にも良い意味でのフィードバックがかかるからである。 それから、私は所謂PIではなく、講座制の研究室に助教として着任する。 このことも、巷では良し悪しが議論されているが、良いところも沢山あると思う。 うまく、日本特有の体制を利用して、今後のキャリアにつなげていきたい。