よく、ネットやSNSで地方国立大学に着任すると悲惨だという意見を見聞きする。 そんなことは現職に着任する前から知っていたけれども、着任してみるとメリット、デメリットが具体的に見えてきたので、メモしておく。 よく、アカデミックポストを応募するときに、地方国立大学や私立大学に応募するかどうかというのは少し悩むと思う。 特に研究者は旧帝大相当の大学で学位をとり、ポスドクをした人が大多数なので、地方国立大学や私立大の実情は知らないことが多いと思う。 私自身も、あまり知らなかった。今後、いろいろな大学のポジションを応募する人のためにも、少し抽象化して見るべきところを述べたい。
地方であっても新幹線駅や空港へのアクセスが良ければ、出張がしやすくなる。単に近いだけでなく、便数が重要となる。 また、学外者を招聘するにもアクセスが良いほうが呼びやすい。
研究室スタイルにもよるが、学部4年生だけでなく修士・博士の大学院生も多くいたほうが研究室のパワーは大きくなる。 そもそも、大学院課程が存在するか、学部4年生の進学率はどのくらいかというのは、研究室のスタイルを考える上でも重要になる。 現状、日本において進学する場合は同じ研究室で進学するのが多数派なので 大学院大学や学部を持たない大学院は、人材募集が鍵となる。
これは地方国立大学に限らないが、設立の経緯からキャンパスが3箇所以上に分かれている大学には注意が必要である。例えば、九州大学であれば、メインは伊都キャンパスだが、医学系の馬出、芸工の大橋、総合理工の春日といったふうに分かれており、それぞれで中心市街地までのアクセスも異なる。教員として普段生活する上では支障ないことがほとんどだが、教養課程と専門課程でキャンパス移動が必須な大学、学生の生活スタイルもアルバイトやサークル活動の形態などに大きく左右され、教員としても入試業務やオープンキャンパスといったイベント、教養の授業でキャンパス間移動がある場合は負担になることも多い。信州大学、山形大学、茨城大学、山口大学は分散度が高いという指摘もある。
地方にメリットはなんといっても家賃の安さである。私は現在、中古の一戸建てを借りているが、5DK (80m2) + 庭 + 駐車場2台という物件に家賃手当を差し引いて、3万円強で住めている。都内なら20-30万円なので、とても窮屈な生活を強いられることになる。一方、大学教員は法人化前は国家公務員であったので、地域手当というものが存在し、東京なら標準給料の1.2倍、貰えることになっている。ここ、飯塚では悲しいことに1.03倍だけれど、地域手当がない地方国立大学もあるので、貰えて幸運なことかもしれない。
私は学術出版に関してはケチなほうなので、オープンアクセス費用を一回も払ったことがない。大学院の頃は、まだオープンアクセスについて世間は騒がしくなく、自分で著作権規定を読んでarXivにアップロードしたりしていたが、最近は、オープンアクセスが義務化されつつあるので、きちんと手元に原稿がある場合は、アップロードしておこうと思っている。 そのときに便利なのが、Sherpa Romeoというサイトである。著作権規定を読むのは時間がかかる上、自分のような学際分野の研究をしていると、投稿するジャーナルも色々とある。さらに規定は、時代とともに変化していくので、規約を読むのは時間が惜しい。 これまで、出版したジャーナルをまとめると、下記のようになった。 これを見ると、Accepted Versionは時間が経てば、どの雑誌もプレプリントに置けるようである。
Submitted Version | Accepted Version | Published Version | |
---|---|---|---|
APS系 | 制限なし | 出版後すぐ | 出版後すぐ |
AIP系 | 制限なし | 出版後すぐ | 1年後 |
Elsevier系 | 制限なし | 出版後すぐ | 無料の術無し |
RoyalSoc系 | 制限なし | 出版後すぐ | 無料の術無し |
ACS系 | 制限なし | 1年後 | 無料の術無し |
RSC系 | 制限なし | 1年後 | 無料の術無し |
IoP系 | 制限なし | 1年後 | 無料の術無し |
大学は宗教・法律・医学の実務家養成のために神学・法学・医学の3つの学部と教養課程を含めた大学が中世西欧に成立する。 この教養課程(リベラルアーツ)には今日でいう数学、天文、芸術、文学、論理学等が含まれる。 ここでは教師は講義を聴講する学生から給与を得る場合と大学を組織する教会が給与を支払う場合の2通りがあった。 したがって自然科学が学問として位置づけられる前の中世では教養課程の教員として科学者が職を得る道があった。 実際、このような教養課程の教師となった科学者として、ケプラー、ガリレオがいる。 また、聖職者として働きながら科学研究をした者としてコペルニクスがいる。
フィレンツェ実験学会(1657-67)英国王立協会(1662)、フランス科学アカデミー(1666年)の設立(近代国家の支援を受けての自然科学)などが出版業務と共に設立される。 これらの資本は英国王立協会は構成員の会費制だったのに比べ、フィレンツェ実験学会とフランス科学アカデミーは官立であった[1]。
ニュートン以降の科学者は、そのほとんどが大学、あるいはアカデミー・研究所に所属して職業として研究者をしていることになる。
工学や技術者養成の教育機関の設立はかなり後である。古代から道路や橋、建物の建設や様々な生活のための道具を作る需要はあった。これを担ったのが大工・職人・技術者である。 しかし、技術者養成は近代になるまで徒弟制度の中で行われていたのみであり、教育組織が作られるのは1800年代以降である。 フランス・エコール・ポリテクニーク(1794年、文民技術と技術将校養成の両面がある)、日本・工学寮(のちの工部大学校1873年)、その後大学の中に工学部や技術者養成課程を付属させる流れが国際的に始まる。 産業革命の発端を作った蒸気機関を開発したワットは大学技術部ではじめの職を得ている。